2020 WINTER/SPRING

青井 茂株式会社アトム 代表取締役

あらゆる人が集い、
喜怒哀楽を分かち合う。
根源の感情を揺さぶるのが、
アリーナの価値だ。

これを書いている今、日本ではラグビーW杯が開催されている。残念ながら、日本チームは大熱狂のなかで戦いを終えたが、その死闘は今でも僕らの胸に深く刻まれている。僕は、4大会連続で現地のスタジアムに出向き、W杯を観戦しているが、今回ほど、応援に熱が入った大会はなかった。横浜国際総合競技場で行われたスコットランド戦では、約7万人の観客が勝利を祈った。競技場は異様ともいえる興奮の渦に包まれ、僕はその観客席のど真ん中で、ますます「アリーナを作りたい」という気持ちを強くした。祖父の故郷であり、僕自身のルーツでもある富山に、世界に誇れるアリーナを作るのが僕の夢だ。

僕はこれまでたくさんの国を訪れ、アリーナやスタジアムを視察してきた。どの街でも、アリーナやスタジアムはその街のプライドであり、文化の象徴だった。街の人々はアリーナやスタジアムを誇りに思い、地元のチームを情熱的に応援した。欧米諸国に比べて、日本はスポーツの歴史が浅いが、いま、日本のスポーツビジネスも変わりつつある。かつては重厚長大産業がプロスポーツチームのオーナーを勤めていたが、今はITやゲームなどさまざまな産業も参入し始めた。指導技術は進化し、アスリートの技量は一昔前に比べて格段に成長している。そして観戦者である僕らも、自由視点映像など最新技術の恩恵を受けて、以前よりもっと大迫力で試合を観戦できるようになった。今後、ウェアラブル端末の進化が進めば、僕らは特殊なアイグラスを装着するだけで、まるでフィールドの中に立っているかのように、空間の音や匂い、湿度までも感じられるようになるかもしれない。ただ試合を「見る」だけではなく、「感じる」とか「想像する」とか、別の楽しみ方も登場するかもしれない。

だが僕は、どれだけIT技術が進化しても、リアルな感動をダイレクトに求める人間の本能的欲求は抑えられないと思っている。いま、パソコンやスマホに代表される電子機器の発達は、人々から恐ろしいくらいに身体性を奪い去ったといわれているが、果たして本当にそうだろうか。むしろ、ITが進化すればするほど、人間は身体性について高い関心を持つようになったのではないか。テクノロジーが進化するほど、人間の欲求はシンプルになり、「もっと五感に刺激を受けて、感動したい」という欲求が強くなっているのではないだろうか。

それが顕著なのが、音楽産業だ。ライブやフェスなどのエンタテインメント事業は、2000年以降業績を伸ばし続けている。CDの売上が激減する一方、ストリーミング産業が急成長を見せ、音楽が当たり前のように日常に溢れるなかで、人々はなぜ、お金を払って会場へ出かけ、大混雑のなかで音楽を聞こうとするのか。それは、「生の感動を大勢と共有したい」という、人間本来の欲求からくるのではないか。事実、ライブやフェスなどの人気にはSNSの普及が大きく貢献していて、それにより、ただの音楽イベントが音楽を介したコミュニケーションの場に変化した。

それはスポーツでも同様で、たとえば超巨大なスタジアムの観客席をたった一人で独占し、超一流のプレイヤーたちの超絶な技巧を間近に見たとしても、僕はそれほど感動しないと思う。すごいなあと感嘆の声を漏らすことはあっても、先日のスコットランド戦のように、拳を振り上げて絶叫し、声を枯らしながら応援することは決してない。あの場には、同じ感情を共有する仲間がいた。名前も顔も知らず、その場限りの仲間だとしても、僕らは確かに一つの感情を共有し、深いところで繋がっていた。そうした感情の共有こそ、試合やライブを生で見ることの意義であり、僕らが本能的に求めるものだ。

本来、スポーツは戦争のメタファーであり、国民がその戦況と結果に熱中するという同様の構造を持っている。特にオリンピックやW杯のような国際大会においては、「スポーツは戦争の代替行為である」という過激な意見さえ聞こえてくる。それは言い過ぎだとしても、人間は元来、攻撃的な一面を持っていて、選手たちに自分自身の姿を投影しているのは事実だと思う。自分と同じ、生身の肉体である彼らが目の前で超人的な白熱プレイを披露する。その影にある過酷な練習や厳しい自律を想像しながら、そんな選手たちの闘いぶりを間近に見るたび、僕はいつも、「自分はこのままでいいのか」というある種、自戒のような気持ちを感じる。「自分はいま、本気なのか」「闘いから逃げていないか」「甘えていないと言えるか」。そんな自省が胸に突き刺さるのを感じながら、僕は拳を振り上げ、選手たちを全力で応援するのだ。そこにはテクノロジーが入り込む余地などなく、僕はあらゆる五感を総動員して、彼らの一挙手一投足を感じ取る。そして数万人もの思いが互いにぶつかり合い、増幅しながら、スタジアム全体を巻き込んでいく。その瞬間、僕の心は激しく揺さぶられるのだ。その揺さぶりこそ、人間が本能的に求めているものであり、人生においてそうした揺さぶりが多ければ多いほど、僕らの人生は実り多く、豊かになっていくのだと思う。ちょうど、畑が何度も掘り起こされたり、耕されたりして、土壌を豊かにしていくように。

僕が描く「富山アリーナ」は、あらゆる人が集い、感情を共有する場所だ。どれだけ最先端テクノロジーを備え、設備が立派でも、「感情を通して繋がりたい」という根源的な欲求が満たされなければ、アリーナの価値はない。そこではたくさんの人が喜怒哀楽を表現し、共に喜び、涙を流す。数万人もの人が挑戦者の熱量に触れ、瞬時の感情を分かち合い、同じ経験を共にする。そんな分かち合いの豊かさこそ、いま、日本が最も必要としているものであり、僕は富山アリーナから、そうした豊かな文化を発信したいと考えている。

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