喜劇王、チャップリンの代表作に『モダン・タイムス』という映画がある。工場労働者である主人公は、終始モニターで監視されながらベルトコンベアーにへばりつき、スパナでネジを回す単純作業をひたすら繰り返している。あるとき彼は工場で騒動を起こし、精神病院送りとなるが、退院後、パンを盗んで逃げる途中の浮浪少女とたまたま知り合う。二人は何度も運命に翻弄され、絶望しながらも、手を取り合い、未来へ向けて歩き出す。そして、最後はこんな言葉で締めくくられる。「へこたれないで元気を出すんだ。運が開ける!」
僕は生まれてから今までずっと「自分は運がいい人間だ」と思っている。「一部上場企業の創業者の孫」という肩書きは、時々重くのしかかることはあったが、決して邪魔にはならなかった。大学を卒業後、数々の会社を経て、祖父が創業した会社のひとつであるA-TOMに入り、不動産の仕事をするようになってからも「運」は非常に大事な役割を果たしてきた。いい物件に当たるかどうかは、まさに運次第といっても過言ではない。もちろん、運が100%物件を見つけてくれるのではなくて、何十、何百もの物件を訪ね、比較し、検討するという作業を重ねて、ようやく巡り会いにつながるのだが、それでも日本国内に星の数ほどある物件の中で、たったひとつ、これというものに出会えるかどうかは、運が大きく関係している。
運ということについていえば、面白いエピソードがある。僕は2013年、コートヤードHIROOを競売で手に入れたが、実は、その前年に別の会社が落札して、僕はすんでのところで逃していたのだ。手付金まで払われていて、もう成す術はなくなったと悔しがっていたところ、突然、その会社がキャンセルし、物件は再び競売市場に登場した。それに僕が飛びついて、取得することができたのだ。
「運」とは一体なんだろう。僕はしばらくアメリカで暮らしたことがあるが、アメリカ人は基本的に「運がいい」という考え方をしない。というよりも、フロンティア・スピリットやアメリカン・ドリームの思考法が染み込んでいるためか、彼らは「運は自分で勝ち取るもの」と考えることが多く、「どうやったら運が開けるか」というある種、運命論的な考え方ではなくて、「どうやって運を勝ち取るか」というノウハウ論で語られることがとても多い。でも僕は日本人であり、運については何か大きな力が働いているのではないかと、取り立てて根拠もなく信じている。もしかしたら無意識の信仰心やアニミズム的な考え方が影響しているのかもしれないし、あるいは、僕がこれまでの人生で何度か大きな病気や怪我をしたことがあるからかもしれない。僕は小学校に上がる前、腎臓の病気で2カ月間ほど入院した。当時の僕は周囲にとても甘やかされて育っていて、入院の日、六人一部屋の小児病棟に足を踏み入れた瞬間のことを今でも鮮明に覚えている。「僕はこの部屋で過ごすのか」。5歳の少年なりに、そんな絶望を感じたのだ。何もかも制限されている入院生活は、わがまま放題に育った少年には苦痛でしかなかった。夜になり、見舞いに来ていた家族が帰ると途端に心細くなって、「自分はどうして生まれてきたんだろう」と、寂しさに押し潰されそうになった。部屋はいつも満床だったが、昨日まで隣のベッドで寝ていた子が、ある日、突然いなくなることもあった。そして、空っぽになったベッドには、間髪入れずにまた新しく誰かが来た。そうやって、ベッドは入れかわり立ちかわり、人によって埋められていく。人が作った穴は人が埋め、僕が今、埋めているこの穴も、僕が来る前には別の誰かが埋めていたのだろうし、僕が去った後もまた違う人が埋めるのだろう。そうやって考えたら、僕という人生は僕だけのものではなくて、延々と続く大きな命の集合体の中で、連綿と引き継がれていくものなのかもしれないと思えてきた。
そう考えれば、たった今、僕の身に起こったことが、運がいいとか悪いとかいちいち定義してまわるのは、なんてつまらないことだろうと思えてくる。これはラッキーだったけれど、こっちはアンラッキーな出来事だなんて、ひとつずつ名札をつけるように色分けすることに一体なんの意味があるのだろう。海に現れる波が一つとして同じものはないように、人生には「幸運」という波もあれば「不運」という波もある。僕は大学を卒業後にカリフォルニアへ渡り、有名なサーフブランドの創業者と生活を共にしたことがある。彼は、朝から晩まで海の話しかしない、心から自然を愛する人だった。サーファーは遠い沖を見てうねりを見つけると、急ピッチでパドルして、波がピークを迎える位置へ先回りする。でも実際は、案外いい波じゃなかったり、誰かに先乗りされていたりすることもあり、そんなときは、「まあ、また次の波があるさ」とキッパリ考えを切り替える。それができるのが、良いサーファーの条件であり、そんな風に大きなうねりの中で自然の計らいに身を任せていると、いい感じに予測や計算が裏切られ、人間は人知を超えた自然の中で生かされていることに気づくのだ。
人生には、荒波に飲まれ、嵐が通り過ぎるのを頭を下げて待つしかないときもある。昔、よくテレビで観た家族ドラマでも、取るに足りないようなドタバタ劇は日常茶飯事だったし、その渦中にいる人にとっては確かに悲劇もあるのだろうが、視聴者として全編通して見渡すと、「なんだか、あったかくていいドラマだなあ」と感じるものだ。冒頭に書いたチャップリンの『モダン・タイムス』も、一つ一つの出来事を見れば、確かに悲しみや寂しさや絶望もある。だが、「へこたれなければ運が開ける」という力強い言葉とともに映画は明るく幕を引く。これはチャップリンが晩年語った、「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」という言葉の象徴ではないか。悲劇の一つ一つに虫の目を向けるか、あるいは、壮大な喜劇に鳥の目を向けるか。僕はできるならいつでも俯瞰する自分自身でありたいし、鳥の目を持つことができる人こそ、地面に落ちた小さな運を見つけることができるのだと思う。
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